<両手一杯の「ことば」セラピーと心の松明(たいまつ)・羅針盤>50
<学童期、何故か心に残った田中正造の世界>
私は小学校のとき、社会科で足尾鉱毒事件で命尽きるまで戦った田中正造のことを習いました。公害と人間の正義のために一心不乱で戦うその姿に感銘を受けたのでしょうか!?古希を迎えた私の脳裏にしっかりと息づいており、改めて教育の力の凄さを思い知らされました。
田中正造は1841(天保12)年、名主の家に生まれました。7歳で儒学の塾に学び、17歳で父親のあとをついで名主となり、23歳で結婚。農民から賄賂を取っていた領主の重役らの罷免、村の自治を要求して農民が立ち上がったとき、その先頭に立ちました。しかし、とらえられ牢に入れられました。江戸時代が終わって明治2年になった29歳のとき釈放されました。
その後、役所の下級官吏に採用され、38歳で政治への専念を決意し、40歳で県会議員となりました。50歳で衆議院議員に当選。翌年、帝国議会で足尾銅山の鉱毒で被害が出ていることについて質問しました。
1901年、衆議院議員を辞職し、明治天皇に直訴を行おうとしたが、抑止され直訴できなかったが、世間に広く知れ渡りました。
1904年、64歳で谷中村に住みつき、反対運動に尽力しました。 1913(大正2)年に支援者の家で倒れ、一カ月後に71歳で逝去しました。葬儀の参列者が、5万人にも及んだらしいのです。
* <真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし>
* <現代の文明は虚偽、虚飾。 私欲であり、あからさまな強奪である。 苦労して働くことが自分の器量を越えているならば、人は裕福になる。> 「日記1912」
* <天災というものはない。 それを災いと呼ぶのは人のつごう。> 「日記1910」
* <昔から人は地形や地勢を利用してきた。 町も村も地の形を根底にして発展してきたのである。 地のその形を人が変えてはならない。> 「建白書1912」
* <自然を、人が左右しようと思ってはならない。> 「日記1911」
* <まことに自己を無ニすれば、天地万物すべてが自分と同じになる。> 「日記1911」
* <人の身に必要なるは人の愛。> 「日記1909」
明治時代を生きた田中正造は苦労の多い実体験から多くのことを学び、ついには高度な人間愛にまで到達した人でした。 その戦いを続ける氏の内面の深化には驚くべきものがあったんだった。最晩年には、人間や自然に神の姿を見ていたんですね。 これは、<資産や権力など何か利用可能なものを持つこと>を最重要視する現代的な生き方とは反対側にある態度で、<今、ここにこうして存在していること>を最重要視する生き方に目覚めた人でした。
<持つこと>よりも<在(あ)ること>を重視する生活を主張しました。
明治人の気骨の深さには、毎度ながら恐れ入りました。小学校時代の教材でしたが、訴求力が私には十分伝わっていたのですね。
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