<両手一杯の「ことば」セラピーと心の松明(たいまつ)・羅針盤>51
<江戸時代から実家で受け継がれてきた道元の世界>
道元は鎌倉時代、13世紀に生きた禅師ですね。道元は「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という本を書きあらわしました。1200年の生まれで、1225年、中国曹洞宗の如浄(にょじょう)に師事し、悟りを得ました。26歳のときでした。1252年、健康がすぐれなくなり、翌年死去。
実家は曹洞宗で曾祖父・祖父が長年総代を勤めていて、昭和7年の寺の火災には、曾祖父が陣頭指揮して実家の山から木を提供し、寺の再建に尽力してきました。実家には、<過去帳>があって、江戸時代からの先祖代々の名前が記録されています。そんなこんなで子ども時代より、<道元>には、強い関心がありました。
* <自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、世界を 真に見ることができない。 自己が自由に、自在に動くとき、世界もいきいきと正動する。>
* <海の中に、竜門という場所がある。 そこは波がしきりに打ち寄せるところである。 どんな魚であっても、その竜門を過ぎると必ずや竜になるのである。 鱗(うろこ)が変わるわけではない。 魚の体もそのままである。 しかし、たちどころに竜になるのである。 禅門に入るとは、そういうことである。> 「正法眼蔵随聞記」
* <たった一つのことに専念することなしには、智に達することができない。> 「正法眼蔵」
* <真実はなんらかの努力で手に入るものではない。 歩き回って探し求めるものでもない。 真実は今この場にいつもある。すべてが真実なのである。>
* <一つの事が面倒になると、 いずれはすべての事が面倒になってしまうものだ。>
* <仏道を学ぶだけではなく、自分が道そのものになってしまいなさい。すると、悟りの跡形(あとかた)さえなくなってしまうから。>
* <悟りを得るとは、水に月が映るようなものだ。水に月が映っても、月は濡れない。 水もまた、こわされることがない。> 「正法眼蔵」
* <相手によって、自分の態度や言葉づかいを変えるようではいけない。>
<いつも全身全霊をもって一心不乱に、今ここに生きよ。>ということですね。残念ながら、私たち現代人が損得や利害といった「分別」の点からいっさいを考える癖がついてしまっているのでょうね。
禅の素晴らしさを語った<鈴木大拙>は、悟りの観点から、もっと無邪気に、かえって<無分別>に生きることを薦めていますよね。
社会は自分と一つのものであると考えたとき、お互い仲良く生きていける。これが大事なんでしょうね。
カウンセリング 神戸市 カウンセリング恵(めぐみ)