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<両手一杯の「ことば」セラピーと心の松明(たいまつ)・羅針盤>53

2019年9月22日

<両手一杯の「ことば」セラピーと心の松明(たいまつ)・羅針盤>53

<再度出会った西田幾多郎先生の世界>

私は旧家に嫁いで苦労している母の姿を垣間見てきて、高校時代より人としての生き方を探求してきました。より哲学的なものに興味・関心を示してきました。日本の人生哲学者と言えば、まず<西田幾多郎先生>のお名前があげられますし、<善の研究>という著書はとても有名ですね。

西田幾多郎先生は1870(明治3)年、加賀の国(現在の石川県)の村の庄屋の長男として生まれました。私の曾祖父と同年代のようです。

石川県師範学校と石川県専門学校(四高)を中途退学してから入学したのが東京帝国大学の専科(聴講生のような身分)だったため就職に困ったり、父親の破産をはじめとする不運や不幸など苦労が少なくなかったようです。

中学校分校教諭、高等学校講師、高等学校教授をへてさまざまな大学で教えていたが、42歳のときの<善の研究>の出版でようやく認められ、1913年から京都帝国大学文科大学教授として倫理学、哲学を教えました。

西田幾多郎先生の生涯の親友は同郷の鈴木大拙氏であり、尿毒症により他界した西田先生の遺体を前に鈴木大拙氏は号泣したといわれています。

1945(昭和20)年に逝去。享年75歳。他の偉大な人物と同じく、西田先生も労苦と悲しみと喜びの多い生涯を送りました。

* <死にし子の夢よりさめし東雲(しののめ)の窓ほの暗くみぞれするらし。>-大正9年に長男の謙氏が享年23歳で逝去したときの歌 「西田幾多郎随筆集」

* <私の妻よりもずっと良い妻が多いように、 私の友よりもずっと良い友は多いだろう。 しかし、私の妻は私の妻であり、私の友は私の友である。>-大正8年に書かれた寸語 「西田幾多郎随筆集」

* <神は無限の愛、無限の喜悦(きえつ)、平安である。>-「善の研究」

* <真理を知るとはどういうことか。 大いなる自己にしたがうことである。 自分の中にある大いなる自己をこの世で実現させること。 それが真理を知ることなのである。>-「善の研究」

* <実在しているものは必ず矛盾している。 その矛盾があるから、実在として成立しているのである。 矛盾があるからこそ、 統一されたものとして実在しているのである。>-「善の研究」

<自分自身を十分に生きる>ことが善であるのですね。 西洋的な考え方と言うのは、<主体と客体>で考えること。主体というのは、自分のこと。自分と相手、あるいは自分と物、というふうにしてたちまち二分されてしまいます。自分と対象の間に一線を引く。その時々の損得、利害、関係を処理するだけの経験ですね。経験というより操作のようなものですね。相手をなんらかの用のための道具とか役割を演じるものとしか見ていないのです。

本当の経験とは、今ここに生きているということのすべてです。

少なからぬ人は、他人や世間の風潮におもねって生きています。この世に生きているはずなのに、自分自身をまったく生きていません。

自分自身を生きること。そこに本物の喜びがあるのですから。

自分の能力を存分に発揮して生きなさいということです。遊んでいる幼い子どもは、自分の能力を存分に発揮して生きています。

かしこぶった判断、世間的な損得計算のない、まっさらな自分でいるときの、この経験です。

素直に、まっすぐに、自分のまま、この生とこの世界にひたることこそが善だと思います。

禅では、自他の区別が無くなり、見えているものと見ている自分が溶け合っています。人情と自然の美を忘れているような人は、結局卑しくて貧しいということですね。

何が起きようとも、どんな苦境に立たされようとも、逃げずに受け止めることができる人。その人の根っこにあるのは善ですね。

自分の得ばかり考えている人はいけないですね。人生は決して安易なものではないですが、自分の道を堂々と素直に生きていけたらいいですね。

カウンセリング 神戸市    カウンセリング恵(めぐみ)

 

 

 

享年