<両手一杯の「ことば」セラピーと心の松明(たいまつ)・羅針盤>57
<私の心を魅了して已まない小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の世界>
* <われわれ自身が一個の幽霊(ゴースト)にほかならず、およそ不可思議な存在であるー>
* <私は日本が好きです。私は、どの日本人よりも日本人です。>
日本を評価してくれた先達に小泉八雲がいます。キリスト教の教えが揺らいできたとき、我々は<どこから>来て<どこへ>行くのかという追求が、西欧での最大の課題になっていました。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)(1850~1904年)は仏教に関心を持っており、仏教がその手掛りになるのではと考え、1890年に日本に来ました。
小泉八雲は日本人の理想を、来日して間もなく訪れた鎌倉大仏の慈顔に見ました。東洋の大願が志したものは、あの無限の清寂(しょうじゃく)に向かっているのであって、無上の自己克服をその理想としています。・・・・・・「日本瞥見記」
この仏像こそは、<日本人の魂のなかにある、やさしさと和やかさ>のすべてを代表したものだと、そんな感じがしてくると述べています。
大願とは仏のことを言うのだそうです。八雲は、仏教の日本人への影響を非常に大きいと考え、日本に来てから仏教を相当研究しています。
八雲は<なりたいという欲求>と、<所有したいという欲求>の違いという考えにも至りました。
・・・・・・<なにかになりたいと望む人間>は、その望みが大きければ大きいほど賢いが、<なにかを所有したいという望み>は、その願望の大きさに比例して、えてして愚かになりがちだと言うことです。「仏の畑の落穂 他」
漱石が留学生としてロンドンに行く十年ぐらい前に、小泉八雲は来日しました。八雲がまず驚いたのは、日本人の自然への接し方が西洋人と全く違うということでした。
日本人の生花について述べています。
<日本人は、あまりにも自然というものを愛しすぎています。彼らは、花のもっている自然の美が、それを挿したり、活けたりする方法如何,あるいはまた、葉と茎のうつりぐあいなどに、いかに多く因っているかということを、よく心得ています。だから、一本の美しい枝でも、茎でも、日本人は、自然が作ったままのものを選択します。> 「日本瞥見記」
<・・・・・・われわれは、東洋人ほど、「自然」をリアリスティックには見ていないし、また、そう「自然」をくわしく知ってもいない。われわれは「自然」を擬人化して眺めるからである。> 「東の国から・心」
<・・・・・・この国民が、あらゆる天然現象のなかに、-山水の風景に、霞に、雲に、落日に、あるいは鳥、虫、花のすがたに、われわれ西洋人などとは比べものにならないほどの、強い喜びを見い出す力を持っています。> 「仏の畑の落穂 他」
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